テトリス

「光のとこにいてね」をオーディオブックで聴きました。半年くらい前に発売された小説です。

ナチュママ系毒親貧困シングルマザーに育てられた果遠(かのん)と、親が医者系毒親に育てられた結珠(ゆず)が半生の中で繰り返す、二人の出会いと別れを描いた小説です。この投稿では、自分が撮った写真にかこつけて「光のとこにいてね」の未読者歓迎感想&考察(ちょいネタバレあり)を書きます。

「光のとこにいてね」には、19世紀フランスの写真家ギュスターヴ・ル・グレイが撮影した、海と空を写したモノクロ写真が登場します。ごく自然な海岸風景を写したように見えるその写真は、実は海と空を別々に撮った2枚の写真を合成したものです。海と空をわざわざ合成した理由は、海と空の明るさが若干違うため、当時のフィルム(感光剤)では2つの被写体を一枚の写真に写すことができなかったからです。

現代の高性能デジタルカメラでも、例えばトンネルのコンクリートのシミと、トンネルを抜けた先に見える雲、という明るさが全く違う2つの被写体を同時に写すことはできません。雲が写るかわりにトンネルが黒く潰れて写るか、トンネルのシミが写るかわりに外の空が真っ白に飛ぶか、どちらかの写真しか撮れないのです。明るさの違う被写体を同時に記録する能力のことをラティチュードと言って、19世紀のフィルムはラティチュードが現代フィルムやデジカメよりもずっと狭かったのです。いまとなっては取るに足らないくらいの明るさの違いしかない海と空であっても、当時のフィルムでは両方を一枚の写真に写すことは不可能でした。

上に掲載したおれの写真は、ラティチュードの広い21世紀のフィルムを使っているだけあって海も空も綺麗に写っています。しかしよく見ると、手前の葉っぱは暗めに写っていてディテールが潰れていることがわかります。どんな被写体も、太陽や照明に照らされてさえいれば人間の目には等しく明るく見えますが、実のところ、この世界の被写体は環境によって光量がかなり違うのです。たとえば照明をつけた夜の室内と快晴時の海とでは光量が1000倍くらい違います。ダイヤルがたくさん付いた古いマニュアルカメラでフィルム写真を撮る人は、被写体の光量にしたがって、被写体が黒く潰れたり白く飛んだりしない設定を自分で考えて撮影する必要があるのです。おれの写真の場合、草木の緑を綺麗に撮るためには、カメラのダイヤルをいじって光を4倍ほど多く取り込む設定にする必要があるでしょう。ただし、葉っぱが鮮明に映るかわりに空や海は白っぽくなってしまうかもしれません。

ギュスターヴ・ル・グレイの海と空の写真は、果遠の学校の図書室に昔から飾られている撮影者不明の写真として登場し、果遠の心に深く突き刺さります。その後、図書室の写真が合成写真であることを知ると、写真の風景がこの世界のどこにもないことを知った果遠は肩を落とします。親と金銭に恵まれずに幼少期を過ごした果遠の目には、清潔で美しく聡明な結珠は輝いて見えたことでしょう。図書室の写真を通して果遠は、無理やり合成写真にでもしない限り自分と結珠の二人の世界は決して交わらないのだと悟るのです。その後も二人は、何度も別れとすれ違いを繰り返します。

ところが小説の終盤では、海と空と、そしてそこにいる結珠を鮮明に目撃する果遠の姿が描かれます。カメラでは全てを写すことはできなかったとしても、ラティチュードの広い人間の目は、合成などしなくても、少しの光さえあれば――光のとこにいれば――海も空もそれ以外も、すべてをはっきりと視認できるのです。「光のとこにいてね」は、明るさが違って交わらない二人の世界が、光の中で曖昧な水平線のように溶けて交わっていく様子を描いた話で、タイトルはきっとそういう意味でもあるのです。

Rollei35 LED┃Kodak ULTRAMAX400┃2023年6月

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